食卓を囲み、丸いテーブルの向こう側に座った人と、今日の話をする。
ただ、それだけのことが、この家を建ててからやけに好きな時間になった。
なぜだろう、と考えてみる。たぶん、テーブルが丸いからだ。
テーブルの形を、まじめに考えたことがあるでしょうか
家を設計していたとき、間取りやキッチンの位置は何度も頭を悩ませたけれど、正直なところ「テーブルの形」について深く考えた経験は、それまでほとんどなかった。
市販の家具はたいてい四角い。四角いテーブルで育ち、四角いテーブルでごはんを食べて、四角いテーブルで仕事をしてきた。疑う理由もなかった。
けれど、ロースタイルのLDKを考えていく過程で、杉の床に座ったときの目線の高さや、朝の光の入り方、人と人との距離の取り方を一つずつ確かめているうちに、ふと思った。
このLDKの中心に置くものが、四角である必要は、どこにもないのではないか。
上座がない、ということ
丸いテーブルには、上座と下座がない。
これは、住んでみるまでは頭で理解していただけで、本当に実感したのはあとからだった。
四角いテーブルには、どうしても「窓を背にする席」「廊下側の席」といった序列が生まれる。家族であっても、自然と「お父さんはここ」「お客さんはこちら」という位置関係ができる。
丸いテーブルには、それがない。どこに座っても、誰と向かい合うかが変わるだけで、席そのものに「格」がない。これは、思っていたより自由なことだった。
視線が、ちょうどいい角度で交わる
もうひとつ、丸いテーブルで気づいたのは、視線の交わり方だ。
四角いテーブルで対面に座ると、相手の目をまっすぐ見続けることになる。会話の熱を上げたいときにはいいけれど、日常のぼんやりした時間には、少し強すぎる。
丸いテーブルだと、同じ「向かい合う」でも、視線がほんの少し斜めに逃げる。相手の顔を見たければ見られるし、窓の外に目をやりたければそうできる。
この視線の余白は、会話のリズムをつくる。話したいことを話し、黙りたいときは黙る。そのどちらも許される空気が、自然と生まれる。
人が、輪になってくれる
予想していなかった変化は、人を招いたときに起きた。
四角いテーブルなら、人は一辺に並ぶ。丸いテーブルだと、人は弧に沿って座る。
これが不思議と、会話の形を変える。全員が全員の顔をゆるやかに見ている状態になる。端に座った人が話の輪から外れてしまうこともない。
近所の移住仲間とごはんを食べるときも、通りすがりに寄ってくれた方にお茶を出すときも、丸いテーブルがあると、人は自然と輪をつくる。「円卓」という言葉が、単なる形の話ではなかったのだと、毎回思う。
動線に、角ができない
実用的な話もひとつ。
丸いテーブルは、家の中の動線を邪魔しない。四角いテーブルの角は、必ずどこかで人の動きとぶつかる。子どものおでこにぶつかる心配もある。
丸いテーブルは、誰がどう動いても、ぶつからない。テーブルのまわりをぐるりと回れる。ちょっとしたことだけれど、日々の暮らしのなかで、この「角がない」ことの効き目は大きい。
古来、人は円の前に集まってきた
こうして丸いテーブルと暮らすうちに、思い出すようになった。
火を囲むときも、囲炉裏を囲むときも、人は円になる。
茶室の炉も、神事のしめ縄も、日本の暮らしの中心には、たびたび「丸」や「円」が現れる。
これは、偶然ではないのだと思う。人が集まる場所、気が巡る場所、静けさが生まれる場所には、角がない。先人たちはずっと前から、それを知っていた。
丸いテーブルを選ぶことは、古い知恵を暮らしに呼び戻すことでもあるのかもしれない。
テーブルの形が、暮らしを少し変える
「生活」から「暮らし」へ——このメディアが伝えたいことのひとつは、小さな形の選び直しが、日々を少しずつ変えていくということだ。
大きな決断をしなくていい。今使っているテーブルを明日買い替えなくても構わない。けれど、もし新しいテーブルを選ぶときがきたら、あるいは誰かに贈るときがきたら、「丸い」という選択肢を、ひとつ頭の片隅に置いてみてほしい。
丸いテーブルを囲んで、向こう側に座った誰かと、何でもない話をする。
そのたびに、ああ、暮らしているな、と思える時間が、静かに増えていく。
それが、私がこのメディアを始めた、ひとつのきっかけでもある。


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